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<プロフィール>

玉木新雌(tamaki niime)氏

玉木新雌(tamaki niime)氏

デザイナー/デペロッパー

大学・専門学校でデザインを学び、繊維商社でパタンナーとして経験を積んだ後、独立。自身の理想の生地を探す中、播州織に出会う。2004年、播州織の新解釈と開発を目指し「玉木新雌/tamaki niime」を立ち上げる。2008年、西脇市に直営店をオープン。その後、オリジナルショールを発表する。住居も西脇市に移し、ベテラン職人さん達の下、播州織の織り方を学ぶ。2010年、直営店を「tamaki niime weaving room&stock room」として同市で移転。織機を導入し、自身が織るonly one shawlの制作を開始。凹凸感のあるデザインと赤ちゃんの肌のようにふっくらとやわらかい着け心地のショールは、年齢や性別、国境を越えて多くの人々から支持を集める。

1.「自分の手で気に入った洋服を作りたい」という思いから、デザインの道へ

―――いつごろから、ファッションに興味をもたれていたのですか?

tamaki niime 子供服

福井県にある実家は、洋服と化粧品を販売するお店を営んでいます。商品を、大阪の問屋街で仕入れていて、私も幼い頃からよく連れて行ってもらいました。そこで両親の仕事が終わるのを待つ間、自分好みの服を見つけたり、コーディネイトを考えたりするのが楽しみだったんです。帰りにはその服を買ってもらえることも多く、クローゼットの中は洋服でいっぱいでした。

でも、ある時、自分が気に入ったものばかりなのに、次第に着る物、着ない物がでていることに気付きました。服を「選ぶ」という行為だけでは、コーディネイトに限界を感じるようになっていたんです。そして、本当に着たいものは、「選ぶ」のではなく「自分の手で作る」という意識を持つようになりました。

きっかけは、小学校の頃、家庭科の授業であったエプロン作りでした。決められた形のエプロンを作るのですが、ポケットだけ自由に付けてよかったんです。自分で自由にアレンジできることがとても楽しく、わくわくしたことを覚えています。

中学生の頃には、自分の服を作っていました。雑誌の裏についている型紙を切り抜いては服を作る、を繰り返し、高校時代には「アウターくらい作れなきゃ!」と思い、コートも作りましたよ。

―――すでにコートまで作れたのに、さらに、大学・専門学校で学ばれたんですか?

高校時代までの服作りは、全て独学で、自己流に作ってきただけでした。なので、本格的に服作りをするにあたり、一度はきちんと勉強したいと思ったんです。そして、武庫川女子大学に入学。衣類、生活用品やインテリア、住空間、建築など、人が生活する上で生じるあらゆるものについて、幅広く学べる生活環境学科で4年間を過ごしました。ここで得た知識は今もあらゆる面で生きていると思います。しかし、専門性と技術力については、まだ自分が納得できる状態ではありませんでした。

そして、ゼミの教授のアドバイスを受け、エスモード大阪へ進学することにしました。

専門学校では、同じ道を目指す人ばかりで、刺激もたくさん受けました。様々なパターンを描いたり、フランス人の先生から授業を受けられたり、自分のブランドを立てる際のブランディングの方法を学べたりと、本当に面白かったですね。

―――卒業後は、繊維専門商社に就職されたそうですが、その際パタンナーを希望されたとか?デザイナー志望ではなかったんですか?

玉木新雌(tamaki niime)氏

デザインというのは、人から教えてもらったり、経験を積んだりするだけで、できるものではないと思っています。それよりも大事なのが、その人の持つ感性です。

しかし、パタンナーは違います。完全なる技術職なので、これをプロの現場で身につけたかった。私が卒業を控えた頃は、ちょうど不況下。技術力が求められる為、パタンナーの新卒募集なんてありません。でも、部長クラスの人たちが並ぶ面接で「パタンナーになりたいんです!」と訴え続けました。

入社後は、ベテランの先輩方の下で、学びながら経験を積むことができました。会社が繊維商社だったからこそ、業界の仕事の流れなども自然に身につきましたね。

当時はそこまでは考えていなかったんですが、すべては、いずれ自分がブランドを立ち上げるために選んでいた道だったように思います。